相談役コラム
10.162017
京の町家考
左京区下鴨に引っ越したのが2年前、毎日、下鴨神社の糺の森を横切って清々しい気分に浸りながら通勤路を楽しんでいる。ちょっとした森林浴みたいな時間が何とも言えず幸せなときに思えるが、勤め先に近づくと町中にテナントビル、雑居ビル、ペンシルビルが林立し、その隙間を埋めるように瓦葺きの町家がへばりついている風景は、何とも雑然としたものだ。
景観問題が叫ばれて久しい京都の街並みも、他の都市に見られるごく普通の町になりつつある。どうしてそうなってしまったのか。
まず建築材料が多様化した事にあるのではないか。昔の建物はおもに、木材と土と紙で出来ていた。木材は柱になり梁になり、床板とか外壁の焼板となって建築物の中心となっていた。土は焼いて瓦となり、練ってすさを入れ左官によって壁になった。紙は障子となってやわらかい光を取り入れたり、襖は穏やかにプライバシーを保つことにつかわれていた。そうした限られた建築材料を、いかに巧みに使いこなすかが腕の見せ所であり、そのような工夫によって意匠上の変化と差別化がかもしだせた。それはおのずから街並み全体に、同質の統一感ある景色を生んだ。
しかし、現代はありとあらゆる材料が使われている。アルミやプラスチック、セメント二次製品(ALC=ビルの外壁)や特殊ガラス、無機塗料などでどんな形や色彩もおかまいなしに造られる。隣にどんな建築物があろうが関係なく、現代の科学技術の進歩を謳歌するがごとく自己主張している。そのことが結果的には町並みとしての統一感を欠き、無国籍な京都を造り出している原因のひとつになっていると思う。
2つめの原因は、全国一律の建築基準法と都市計画法や消防法にあると思う。昭和25年制定の建築基準法は、京都の特殊性を無視して防火規定を京の町家にも適用した。
延焼防止ということで構造材の柱や梁をモルタルで包み込み、大壁工法によりのっぺらぼうの外壁が出現、杉皮や竹押さえの錆皮張り、杉の焼き板張りが姿をなくしていった。そして昭和45年に改悪された都市計画法が京都に具現化されたとき、職住一体の用途規制の「職」を重視し、隣に高層建築が可能な用途地域を制定したことによって、京都の美しい街並みは、「非情理の効率」を追い求める市場経済にまかせて町並み破壊へと進んでいった。なによりも、京都人が京都の誇りを戦後急速に失ってきたことが最大の原因。私が生まれたのは京都御所の南側、基盤の目になった町家が整然とその当時並んだ所だった。べんがら格子に、かしぎ造りの瓦屋根を持った町家を、意図も簡単にビルに立て替えてしまう。
イタリアやドイツは第二次世界大戦で主要都市が壊滅的な破壊を受けたのにもかかわらず、今日、伝統的な美しい町並みを復活させている。私の建築会社は海外の建造物を何度か視察にいったが、古い建物をうまく再活用するヨーロッパのレンガ職人や大工の仕事を見て、なるほどと感じ入ったものだ。それを発注する施主の町に対するこだわりがあるからこそ、彼らも誇りをもって倒れかけた大きなレンガ壁にジャッキをかけて修復作業をしているのが何となく頷けた。京の町家が残るか残らないかは、市民一人ひとりにかかっているといえる。私どもは伝統の町家建築の技術を今はもっているが、注文がなければその技術さえ滅びるだろう。
1999年11月