相談役コラム
11.62017
見知らぬ遺産
「人見さん、今すぐ来ていただけますか?」と懇意な司法書士の女史先生からの電話。取り敢えずかけつけると一人の老婦人が応接室におられた。不安げな面持ちでちょこんと座っているその方に簡単にご挨拶して事情を伺うと次のような話である。
突然、裁判所から呼び出しが来て、このような家が私のものだということでもらって来たのだがどうしたら良いのやら、この家のことをかすかすに覚えているのは戦前、娘のころ母に一度だけつれられていった記憶だけ。今はただ一人の相続人としてどないしようもないので、女性名の司法書士看板を見て飛び込まれたとのこと。
一族がすべて死に絶えた相続物件は織り屋の集積地である西陣、水上文学で有名な「五番町夕霧桜」の旧遊郭街にある。裁判所の調査資料や謄本を見ながら、無断居住人が数家族入っていることなどで、「今から私が所有者ですから家賃をくださいといったところでもめるだけだし、持っていても仕方がないので売却できるものであれば処分をして税金を払い、残ったお金を孫にあげたい」と話され、その方は私に事後処理を一任し、大阪に帰っていった。
その家はなん棟にも分かれた古い料理旅館のような建物になっていた。居住者全員に集まってもらい、事情を説明して妥当な明け渡し料を払うことを提案した。この種の話は虚々実々の事がついていくるもので粘り強く交渉し、空家不動産として売り物にすべく努力を始めたが、遊郭街に付き物のやくざ屋さんが、「しのぎ仕事として仕切らせろ」といってきた。断りに物件の向かいの組事務所に行くと坊主頭の組長はいかつい武闘派である。三重苦のような仲介物件を抱え込んでしまった、と思ったが乗り掛かった舟である。
いわくありげなこの屋敷の中庭の隅に、上部にひび割れの入った三日月の石灯籠と、石仏の崩れかけた社があった。遊女が肺病などで死んだあと野辺送りの席がもうけられ、朋輩が若い死を嘆いて祭ったと聞かされた。除籍簿や長年の居住者から一族が死に絶えた原因を知り慄然とした。当時の跡取り娘が水量の多い夷川疎水で入水自殺、それを悔やんで母親が奥の蔵で首つり自殺をはかった。亭主はその後廃人となり料亭をたたんだのち、病死。廓の賑わいとは別に、酒肉の料亭も遊女の悲しい思いが店を閉めさせたのかもしれない。二家族は立退料を受けとりすんなりと出ていったが、すぐに行き先のない方には行き先探しを手伝っていた矢先、テレビニュースで五番町での発砲事件が流された。夜の五番町飲み屋街は火が消えたように静まり返り、警察の鼠色の装甲車が二四時間、組事務所の向かいの屋敷前に、あぐらをかくように止まってしまった。その後、撃ったのが件の武闘派の若い衆と分かり、やきもきしていると組長から電話がはいった。「今、何処にいはりますねん。うちの売り物件売れしませんがな」と言うと「ホテルや、あと二人出したから明日には車どけよる」狙撃犯と共謀者あわせて四人の手下を組長は失い、抗争相手の組に島も差出し、手をつめて手打が出来たようであった。こんなことがあって引き受けたこの物件がますます処分しにくくなっていた時、今は亡き京都の不動産業界のドンに呼ばれた。烏丸通りに面したビルに行ってみると、建物の計画図面を広げて採算が取れるには、この値やと馬鹿安値でまわせと強要、席の後ろにこの物件を持ち込んだ強面と住専幹部が立っていたが、こんな連中に売るものかと席を立ち、帰ってきた。
そうこうしているうち高齢の居住者二人が相次いで亡くなり、僧侶を呼んで弔いを手伝った。残っていた居住者も老人ホームと親戚に行かれてやっと空き家になり、本格的な売却営業を不動産屋らしくようやく始めた。暫くして納得のいく方に買ってもらった。
大阪から来た老婦人が何度も頭を下げ、お金を持って帰ったのは京都にバブルが始まる直前の頃だった。
2000年3月15日