相談役コラム
6.112018
100年企業に認定されるか
今年71歳になる私は、父や爺さんから、創業は大正7年(1918年)と聞かされていた。となると今年は創業100年なので、記念事業をしたいと四代目の息子と相談しているこの頃である。
京都府には100年企業を認定する制度がある。同一業種で100年以上、社会経済情勢の変遷の中で創業者の精神を守り、伝統の技術・商法を継承し、堅実に家業の理念を守り他の模範となってきた企業を顕彰するというものである。
この『京の老舗表彰』に応募するため、過日、京都府庁におもむいて、申請書類を受け取った。認定には100年前から業務をしていた証拠となる大福帳や電話帳、商工会議所名簿に記載されている日時の明らかな写真、道具、新聞記事に創業年が判明するものがあればよいとのことであった。
京都市の中心に位置する弊社の近辺には、塗師屋は1000年以上、竹屋は330年、お茶屋は301年、明治3年創業の八百屋、110年の洋菓子屋と、ゴロゴロある。
私のルーツを戸籍簿と現存する資料で記してみる。
曾祖父人見栄吉は1848年12月23日人見喜三郎長男として生れ、25歳の時に放蕩がやまず明治7年(1874年)5月10日分家(勘当)される。そして明治29年2月7日 中京区夷川新烏丸東入梅ノ木町147番他の1の建物を45円で購入した。連れ添いに子はできず養女(私の祖母うめ)を貰い受け、薬を商っていたが、昭和6年(1931年)3月10日死亡(82歳)した。 建築業でなく『京の老舗表彰』とはならない。
私の祖父、人見八三郎は1888年(明治21年)9月20日北桑田郡黒谷村字灰屋6番舌音吉二男として生れ1902年(明治35年)下京の建具店見習となった。祖父が東本願寺の明治建替大工事の最後に外周の大門の扉を堀に沈めて年季明けの頃に引き上げ、組子をばらして調整して組み直して取り付けた、と語っていたのは印象深い思い出で話である。
八三郎28才の1916年(大正5年)、人見とめと婿養子結婚した。祖母うめ、父弥一郎によると、祖父八三郎は指物(建具)だけでは生計できなく大工仕事を始めたのが1918年(大正7年)、自宅での創業であったとのこと。八三郎は町屋大工仕事をして5人の子供を育てた。1970年82歳の時、自宅玄関の敷居につまづき足を骨折しやっと仕事をやめた。5年後の87歳で亡くなった。仏壇は、八三郎が岡崎で開催されていた全国博覧会で展示されていのを、弥一郎を連れて何度も見に行き自ら作ったものである。私は八三郎の現場を父弥一郎と一緒に仕事をしたことが幾度もあった。
2代目父弥一郎は、1918年(大正7年)八三郎長男として生まれ、1932年(昭和7年)大工技術を習得する為にその当時、他人の飯を食わなければ一人前の職人にはなれないとの事で、上京区の内藤工務店に大工見習いに入った。1938年(昭和13年)徴兵、中国へ出兵したが無事に帰還でき、1944年、空襲警報の鳴る中、母君子と結婚した。
戦後、1946年(昭和21年)建築請負業2代目として人見建設を中京区御幸町通り二条上ル達磨町606番地で興し、祖父八三郎を助けていた。
祖母、祖父が相次いで亡くなったのは1976年(昭和51年)であった。祖父の家を人見建設の作業場と二階を事務所に改装したのは、父弥一郎58歳の時である。
私が36歳の時、1983年(昭和58年)に三代目として継承し、同時に株式会社とした。その前の1981年に、私は不動産業に進出する為、人見不動産を立ち上げ設立していた。 そして現在地、中京区寺町通夷川上ル久遠院前町686番地にバブル最盛期の1990 年(平成2年)に本店新築移転した。その後、1998年(平成10年)一級建築士事務所を開設し、施工・設計・不動産の総合建設業の体制を整えることが出来た。
4代目毅は、1993年(平成5年)22歳で 人見建設株式会社に入社し、2014 年(平成26年)5月42歳で 人見建設株式会社4代目代表取締役に就任し、私は現在、会長職となっているが、毎日元気に出勤している。
100年企業の『京の老舗表彰』を受賞する為には、客観的な資料がどうしても必要なので、歴彩館で保存されている資料のなかに、100年前の保険会社の住宅地図が残っていたが、祖父八三郎は字が不得手でその当時の記録は皆無であり、あるのはお寺参りや講の記念写真しかない。 登記所や歴彩館で調べているが確たる記録は未だに見つかっていない。
2018年4月27日