相談役コラム
1.252008
昔東京極、今寺町通り
寺町通りの弊社から北へ500m程上がった寺町通り広小路上がる「虜山寺」は、源氏物語や紫式部日記を執筆した紫式部の住居址であると、昭和41年、角田文衛博士によって明らかにされた。 『紫式部日記』によると、紫式部は宣孝と結婚しても、育てた父・寺町の偽時の中河堤邸宅にしばしば長居した。宮仕えしている間にも、里第に預けてある娘の賢子(かたこ)が乳母にかしづかれながら母親の里下りを待っているのを気にしていたのである。 寺町通りは平安京の時代、東京極大路にあたり、都の東外れであったが紫式部の時世は都の賑わいは東へ東へとなり、地価の安い、洪水の危険はあっても眺望のよいこの地に目をつけ、墾田を買収して宅地を造成した公家屋敷が建ち並んでいた。 東京極大路には東京極川があり、二条以北の別名として『中河』と呼ばれており、鴨川との間の邸宅は優雅な佇まいを呈していたと思われる。中河堤に面した紫式部邸の向かいには染殿・清和院・土御門殿が建ち並んでいた。 弊社の南、書道道具店古梅園前にある石碑「藤原の定家址」は定家閑職時代の住居であり、歌人として認められたて正二位権中納言となり、紫式部の父・『堤中納言』と呼ばれた為時邸の北、東京極一条(現寺町今出川下ル)に邸宅を構えている。 平安京の都市計画は、朱雀大路は28丈(84m)巾で、東京極通り(現寺町通り)は10丈(30m巾)となっている。 今の河原町通りより広かったのだが、200年後の紫式部の時代には、光源氏が中河越えに式部邸を伺っているくだりは大路ではなかったようだ。 寺町通りのいわれは、字の通り寺が建ち並んでいるからで、そのような都市改造をなそうとしたのは秀吉の支配統治である。鴨川の氾濫防止のため鴨川岸にお土居を築き、市中の神社を防波堤にして、移転出費で寺の権勢を削ぎおうとしたのであるが、秀吉時世にはかなわず、以後も寺の移転が江戸時代も続いたのは、やはり平安貴族の優雅な趣味と同じく鴨川堤の見晴らしが寺も欲しかったのかもしれない。 しかし、宝永5年(1708年)の大火により連綿とした伽藍は焼けてしまい、鴨川東の新天地に移転再建され、その転出されて空いた跡地に庶民の使える土地となったようだ。 寺町通りは、明治に市電が通る迄は中川と云う川が流れており、私の曾祖父の時代には鯉が泳いでいたという。 市電を寺町通りに通す工事の為、中川は埋められ暗渠となり一千年の歴史を地下に綴じ込めている。その当時、寺町通りの拡幅工事が行なわれ弊社側が切り取られ、今の13m巾となっている。昔の寺町通りは東に中川があり、西側は町家がせまっていた細い道であったのだろう。 また角田文衛博士の著書によると、中河は「十一世紀の後半には殆ど水が絶えていたのではないかと思われる。 寺町通りに明治28年ごろまで流れていたのは、第二次の中川であって、第一次のそれとは水源も河床も異にしていた。」とある。 第二次の中川は千本通りにあった禁裏が、東へ東へと移動し仙洞御所庭に流水を入れんが為、鴨川の上流相国寺北より引き入れ、寺町通りを通して五条の橋下へ落としたのであるが、明治になって鉄管で引けるようになって中川はお役後免となった。中川だけでなく市域にある本願寺や二条城などは各々専用水路を持ち、遠くは鞍馬川から引いているところもある。 いま、寺町通りにはお寺は少なくなったが、弊社のある町名は久遠院前町といい、南の町名は要法寺前町、と昔のお寺の名前のみが生きている。 人見 明