相談役コラム

会長コラム ~同人誌『飛翔』に投稿したコラム集~

相談事例 遺産処分

「人見さん、今すぐ来ていただけますか?」と懇意な司法書士の女史先生からの電話。取り敢えず駆けつけると一人の老婦人が応接室におられた。不安げな面もちでちょこんと座っている老婦人に簡単にご挨拶をして事情を伺うと次のような話である。突然、裁判所から呼び出しがきて、このような家が私のものだということでもらってきたのだが、どうしてよいのやら、この家のことをかすかに覚えているのは戦前、娘の頃母に一度だけ連れられていった記憶だけ。今はただ一人の相続人としてどないしようもないので、女性名の司法書士看板を見て飛び込まれたとのこと。 一族がすべて死に絶えた相続物件は織り屋の集積地である西陣、水上文学で有名な「五番町夕霧楼」の旧遊郭街にある。裁判所の調査資料や謄本を見ながら、無断居住人が数家族入っていることなどで、「今から私が所有者ですから家賃をくださいと言ったところでもめるだけだし、持っていても仕方ないので売却できるものであれば処分をして税金を払い、残ったお金を孫にあげたい」と話され、老婦人は私に事後処理を一任し、大阪に帰っていった。何棟にも分かれた古い料理旅館のような建物になっていた。居住者全員に集まってもらった。事情を説明して、妥当な明け渡し料を払うことを提案した。この種の話は虚々実々のことがついてくるもので粘り強く交渉し、空き家不動産として売り物にすべく努力を始めたが、遊郭街に付き物のやくざ屋さんが、「しのぎ仕事として仕切らせろ」といってきた。断りに物件の向かいの組事務所に行くと、丸坊主の組長はいかつい武闘派である。三重苦のような仲介物件を抱え込んでしまった、と思ったが乗りかかった船である。 いわくありげなこの屋敷の中庭に、上部に割れの入った三日月の石灯籠と、石仏の崩れかけた社があった。 遊女が肺病などで死んだ後、野辺送りの席が設けられ、朋輩が若い死を嘆いて祀ったと聞かされた。除籍簿や長年の居住者から一族が死に絶えた原因を知り慄然とした。当家の跡取り娘が水量の多い夷川疎水入水自殺、それを悔やんで母親が奥の蔵で首つり自殺をはかった。亭主はその後廃人となり、料亭をたたんだのち病死。郭の賑わいとは別に、酒肉の料亭も遊女の悲しい思いが店を閉めさせたのかもしれない。 二家族は立ち退き料を受け取り、すんなりと出ていったが、すぐには行き先のない方の行き先探しを手伝っていた矢先、テレビニュースで五番町の発砲事件が流された。夜の五番町飲屋街は火が消えたように静まりかえり、警察の鼠色の装甲車が二四時間、組事務所の向かいの屋敷前に、あぐらをかくようにとまってしまった。その後、撃ったのが例の件の武闘派の若い衆と分かり、やきもきしていると組長から電話が入った。「いまどこにいはりますねん。うちの売り物件売れしませんがな」と言うと「ホテルや、あと二人出したから明日には車どけよる」。狙撃犯と共謀者合わせて四人の手下を組長は失い、抗争相手の組に島も差し出し、手をつめて手打ちが出来たようであった。 こんなことがあって、引き受けたこの物件がますます処分しにくくなっていたとき、今は亡き京都の不動産業界のドンに呼ばれた。烏丸通に面したビルに行ってみると、建物の計画図面を広げて、採算がとれるにはこの値やと馬鹿安値でまわせと強要、席の後ろにこの物件を持ち込んだ強面と住専幹部が立っていたが、こんな連中に売るものかと席を立ち、帰ってきた。 そうこうしているうち高齢の居住者二人が相次いで亡くなり、僧侶を呼んで弔いを手伝った。残っていた居住者も老人ホームと親戚に連れていかれて、やっと空き家になり、本格的な売却営業を不動産屋らしくようやく始めた。しばらくして納得のいく方買ってもらった。 大阪から来た老婦人が何度も頭を下げ、お金を持って帰ったのは、京都にバブルが始まる直前の頃だった。人見 明

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