相談役コラム

会長コラム ~同人誌『飛翔』に投稿したコラム集~

課長の定年退職

この10月で幹部社員の女性総務課長が定年退職を迎える。永年の貢献に応えたいと、役員会は退職金制度が出来てから、初めての規定退職金を上回る金額を支給することを決めた。
 社内の慰労会は退職月の月末に先斗町の「山とみ」で行なうことが決まっているが、勤務日最後の20日をどのような気持ちで迎えるのかと思うといたたまれなくなり、「20日の夜は空いていますか。」と声をかけると「ええ、空いてますけど?」の返答に勤務最終日の夜、一緒に食事をしょうと誘った。妻も同席し、高台寺ちかくの料理屋でささやかに慰労することが出来た。課長が弊社に来てくれたのは、私の父が1987年2月2日、脳梗塞で突然倒れ、母もその看病で病院通いの毎日で困っていた時であった。課長就労記録にはその15日後の2月17日とある。
 当時、父は現場に出られない体調ではあったが、事務所に居て経理と受け付け連絡をしてくれて助かっていた。 その父が突然いなくなり困り果てた。何とか事務所に居てくれる人を探さねばと、知り合いにお願いをした。個人タクシーの組合事務局の柴野さんに事情を話すと、友人の妹が東京から帰って京都で就職先を探していると聞き「ぜひとも、宜しくお願いしたい」と頼みこんだ。
 暫らくして柴野さんの友人の料飲組合の事務局に勤めておられる方から「妹を行かせます。」との連絡にほっとした。
 来られるのを今かいまかと待ち望んでいたその日、スーツ姿の端正な女性が来られた。こんなむさ苦しい所に場違いなレディーにとまどったが、簡単な挨拶のあと、早速彼女にあとを託して現場に飛び出した。 夕方事務所に帰ると、せっせと事務仕事をしてくれていた。次の日、「おはようございます。」と出社されて安堵した。社員・職人は新しく入社事務職員に戸惑っていたが、すぐに打ち解けてくれた。
 その当時、私は30代後半で、専務や主任監督とともに現場管理と職人の手配、下請けの段取り、施主との打ち合せ、設計見積もり等をこなしていた。今から思えば私の職業人生で一番忙しい時であったように思う。
 てきぱきと経理業務から現金管理、書類作成をこなしてくれる彼女に、私は本当によい人が来てくれたと感謝した。
 その後、業績は拡大して、世の中はバブル景気に突入し、総務経理事務も繁忙をきわめ、翌年にもう一人の事務職、さらに翌年にもう一人が入社した。事務所はこれ以上机を置くスペースもなくなり、移転せざるをえなくなり、同じ移転をするのであれば、寺町通りに出たいと物件探しをしたが、バブル景気で地価はうなぎ登りの高騰を続けていた。それでも今が買い時とばかりに坪1千万近い金額で現在の本社土地を購入した。
 新社屋を建てる計画を話すと、課長は弊社を退職し新社屋の一階を借りて画廊経営をしたいと言い出した。建築会社の経理事務で仕事人生を終えるのがあわないと思っておられたのかもしれない。
 竣工後、一階本社で課長は画房「千」を開店した。しかし2年後、バブル経済崩壊が始まったとき 、画廊経営は思うようにはいかず画房は閉鎖され彼女の夢は潰え去った。
 復帰されることを願っていた仲間は、再び会社にもどってきた課長を暖かく迎えた。
 それから20年が経った。 バブル崩壊後の厳しい時代、消費税5%引き上げによる建設不況、建設総需要抑制と続いた失われた時代と言われた日本経済の20年を共に頑張ってきた。
 課長が弊社に残した成果は、総務経理業務を全て社内で自己完結出来る体制を創って頂いたことにある。また、私の暴走をいさめる苦言も時として言ってくれるすばらしい友であった。一緒に仕事が出来た期間、共に苦労も乗り越えてきた課長に心から感謝の言葉を送りたいと思う。

人見 明

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